日本ハム伊藤大海の出身地、北海道の鹿部町。函館がある角の裏側の辺りの小さな町。伊藤が注目されてから、同町出身のもう一人のプロ野球選手がいたことを知りました。
2015年に亡くなった盛田幸妃(もりた こうき)。大好きなピッチャーでした。漁師になった伊藤のお父さんと盛田は、中学の同級生とのこと。縁とは不思議なものです。
盛田のことは、最初に所属していた横浜時代から好きだったのです。後に「落合が最も嫌がった」として名を馳せた、荒れ球のシュートが有名です。最近では、斉藤和巳が自分のYouTubeチャンネルで、シュートピッチャーNo.1にあげています。
派手な所作はしないし、いつも、目深に被った帽子のツバが顔に陰を作っていたと思います。だから、なおさら投げるボールの凄みが増して感じられました。実を言えば、スタは彼の球だとストレートの方が好きだったかな。速くて重そうでズドーン!てミットに収まって。シュートはちょっとヒヤヒヤし過ぎ(笑)。
そんな盛田が近鉄にトレードされて来た時は、平野謙がパ・リーグに来た時と同じくらい嬉しかったですね。移籍当初(1998年)からすごくチームにフィットして、猛牛ユニフォームが抜群に似合いましたね。なんせスタイルが良かったですからねー。上半身も下半身も厚みのある四角型の脚長長身。はっきりした色使いのユニが映えるんですよ、マウンドで。ところが、移籍間も無くして脳腫瘍が見つかり、再起は厳しいかという雰囲気が漂って。ほぼ1年後、2軍戦で登板したというニュースを聞いた時も、嬉ししい反面、ちゃんと第一線で投げられるようになるのかなあ、という不安が拭いきれませんでした。しかし、その年の最後の最後、彼は見事に1軍復帰登板したのです。スタは幸運にも、その瞬間をテレビ中継で目撃することができました。
その当時、パ・リーグの試合って中々テレビで見られませんでした。現地観戦も当時はほとんど行けなかったスタにとって、情報源は、プロ野球ニュースとラジオの文化放送ライオンズナイターと野球雑誌が頼り。テレビだと、なぜかテレビ朝日が日本ハムのデーゲームを時々週末に流してくれましたね。NHKの中継以外はそれが楽しみ。そして、近鉄の試合では、10.19川崎ダブルヘッダーや、代打満塁逆転サヨナラ優勝決定ホームランや、近鉄消滅最終試合などはテレビで見ることができました。でも、民放のパ・リーグ中継は、巨人戦なんかと違って、試合の緊迫感やら選手情報やらを伝えようとする熱量が低いなあって感じてましたねえ。被害妄想かな(笑)。
そんな中、盛田の復帰登板となった1999年10月7日の近鉄ーロッテ戦という地味な試合が何故か、関東で中継されていたんですね。もしかしたら藤井寺球場で行われる1軍公式戦の最終試合だったからかな。平日木曜日のナイター。ほんとに中継されたのかな? 夢かな? 詳しいことが全然思い出せない。そのテレビ中継については、検索しても全然情報が見つかりません。いつか図書館に行って調べてみよう。
藤井寺の最後というだけのシーズン最終戦を、スタは部屋で一人で、ぼーっと眺めていました。盛田登板の予定は全然告知されておらず、奇跡の復活は突然やってきました。先発投手が降りて、リリーフカーに乗ってきたリリーバー。広い肩幅と目深に被った帽子。「あれ?」と一瞬思うものの「……いやいやまさかね、」と信じられない。「じゃあ誰だろう?」。戸惑ったのはスタだけじゃなかったようです。パ事情にあまり詳しくなさそうだったアナウンサー氏もそのひとり。「あ、ピッチャー交代ですね。えーと、………えー、うん?」と、紹介に微妙な間が入る。そして「……あ、盛田ですね。盛田に交代です」。スタは本気で椅子から転げ落ちそうになった。
うわあ、盛田だあ。ほんとに盛田だ。帰って来たんだ。……投げるの? 大丈夫なの?
心臓バクバクするし、足震えてくるし、涙出てくるし。きっと視聴者には事情を知らない人もいるだろうな。だから、中継でしっかり紹介してあげてほしくって、感動的な言葉を待っていたのですよ。が、アナウンサー氏が事情を知らない人だったようで……。盛田が大変な病気と闘っていたこと、1年以上のブランクからようやく帰って来たこと、どれも一言も紹介されず……。解説者氏も多分事情通じゃない人だったんです。投球の間も盛田へのコメントは聞くことはありませんでした。記憶は曖昧だけど、投球練習の間とかCM入っちゃったかもしれない。まあとにかく、そのぐらい淡白に、奇跡の復活登板の物語は流されていきました。
こっちはボロボロ泣きながら、「ばかやろーーーー!他の話なんかどーでもいいから、盛田の話してよ!クローズアップして、一挙手一投足を映してあげてよ!裏話も取材してよ!」って唇を噛んでるわけです。結局、そのテレビ中継では登板後のコメントさえ伝えられなかったなあ。当の盛田はと言えば、病以前と変わらぬスタイルの良さとゆったりした所作で、病以前と変わらぬ強いボールをしっかりと投げ切り、アウトを取りました。翌年は完全復活してカムバック賞。近鉄優勝にも貢献。引退後も解説等最後まで野球に関わる仕事をしました。
と、ここまで書いてまた情報を探していたら、一般の方がTBSラジオの追悼番組を記録してくれた動画が見つかりました。ここに、あの復活登板の中継も残されていました。なるべく公式資料を引用する方針ですが、あまりに貴重なので、今回はこちらのリンクを貼ります。当該中継は31分頃です。昔のラジオの野球中継ってすごいですよね。ああ、本当に、この中継であの登板見たかったな。
この中継の中では、復活したとはいえ、動きづらくなった右足に装具を付け、バント処理などできないから、バントの構えされたら顔の高さに投げて防いでいた、という裏話もあります。彼のブログをよく読んでいたけれど、何度も再発した病の辛さや心の揺れを包み隠さず記す中に、生きるためのしぶとさや強さへの自問が切々と伝わるいい文章でした。彼の強さは、野生の生き物のようで、投球にも表れていた気がします。
こんな風に盛田のことを考えるたび、「あの頃パ・リーグTVがあればなあ」という思いに駆られます。リリーフカーで登場した姿、ゆっくりとマウンドに向かう姿、割れんばかりの拍手で迎えたスタンドのファン、最初の1球、アウトを取った感慨無量な表情、その全てを記録してくれただろうに。球団動画があれば、球場入りやブルペンでの姿も記録してもらえたかもしれない。いつの日か、あの復活登板がきちんとしたアーカイブ(アナウンスはラジオの方をアフレコでつけよう)として残ってくれればいいのにな。
今、ネット動画で裏の裏まで選手の様子を見せてもらえるって、本当に幸せて嬉しいことです。遠い未来、技術や世情が変化していっても、これらの記録が残っていくこと、できれば、昔のニュースなどの記録もまとめられていくことを願ってやみません、